こんにちは!
暴風の南三陸町です...
モアイ像は、本日も見守るように鎮座しております。
イースター島(チリ共和国)から南三陸町に贈られた世界初のモアイ像になります!
そんな中、南三陸町にモアイ像を贈呈するため、ご尽力を頂いた彫刻家”マヌエル・トゥキ”氏が、3月11日に享年99歳でお亡くなりになられたとの訃報が飛び込んでまいりました...
南三陸町とモアイの関わり
南三陸町とチリは、約17,000キロメートルの距離を越え、長年友好関係を深めてきました。
そのきっかけは1960年5月24日未明に、遠い遠い海の向こうから押し寄せて来たチリ地震津波が始まりです。
旧志津川町内だけで、41名が犠牲となり、312戸の家屋が流失、倒壊653戸、半壊364戸、浸水566戸の壊滅的な被害を受けました。
チリ地震津波により同時期に大きな被害を被ったチリと南三陸町。
その後、お互いの被害状況を知った両所は「津波の記憶を未来につなごう」という想いで深い絆を結びます。
この津波の記憶を未来に伝えようと、30年後の1990年にチリから国鳥コンドルの碑が贈られました。 さらに、31年後の1991年には、南三陸町(旧志津川町)がふるさと創生事業の一環としてチリ人彫刻家に依頼して創った復刻のモアイ像が、南三陸町(旧:志津川地区)の松原公園に設置されました。
ところが2011年の東日本大震災で、1991年に設置されたモアイ像は流出。
その後、瓦礫の中からなんとかモアイ像の頭部を見つけ、現在、南三陸町内の志津川高等学校に展示されております。
南三陸町のモアイ像が流出したことを受け、チリ共和国の日智経済委員会、および大統領までもが、新たなモアイ像を南三陸町に贈ろうとイースター島の長老会に協力を求めます。
しかし、イースター島の石を使い彫られたモアイ像が、島外に出たことはいまだ一度も例がありません。
門外不出という事もあり、モアイ像を贈ることにかなりの反対があったそうです。
ただ、当時93歳だった老彫刻家マヌエル・トゥキ氏は、立ち上がり皆にこう呼びかけたそうです。「海に破壊された日本の町に、人々が再びそこで生きていきたいと思えるようなマナ ( 霊力 ) を与えるモアイを、贈れないのか?私は息子とともに、日本の人たちが必要としているモアイ像を彫る!」と決断しました。
すると長老会が大きな拍手に包まれたそうです。
こうして、イースター島初、いや世界初のプロジェクトが始まりました。
そして震災から2年後の2013年、世界で初めてとなるイースター島のモアイ像が南三陸町に贈られました。
こうして息子のベネディクト・トゥキ氏は、石材を切り出して、親戚の彫刻家たちとともにモアイ像の制作に取り掛かりました。
完成したモアイ像が贈呈される時、南三陸町を訪れたトゥキ氏は、最後に設置されたモアイに白珊瑚と黒曜石で作られた眼を入れました。
※ちなみに、目の入った本物のモアイ像は世界で2体しかないため、南三陸町に贈られたモアイ像はそういった意味でも非常に貴重な1体です。
南三陸町を訪れ、津波の惨禍を目の当たりにしたトゥキ氏の目に涙があふれました。
「眼を入れるとマナ (霊力)がモアイに宿る。南三陸の悲しみを取り払い復興を見守る存在になることを願っている。」とトゥキ氏は述べましました。
チリも南三陸町も、豊かな海から糧を得、その恩恵に人々は畏怖と感謝を込め生活してきました。そして、長い歴史の中で、いとも簡単に人間の命や暮らしを奪う海の恐ろしさを熟知しています。
地震を感じなくても、津波は地球の反対側から襲ってくることがあります。
双方の地は長い時間の中で大自然の災禍を体験し、人間がどう自然と共生すべきかを学んできました。そして、どんな困難にぶつかったとしても、勇気を持って立ち向かう心意気を勝ちとってきたのです。
「モアイ」は、イースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」という意味です。
門外不出の大切なものを贈ってくれたチリ共和国とイースター島の人たち、そして高さ3メートル重さ2トンの巨大な像を、はるかな島から運び設置するために力を尽くしてくれた企業や多くの人たちの気持ちが、南三陸のモアイには込められているのです。
両国の絆を結ぶモアイ像は、これから遠い未来まで、未来に生きる南三陸町の人々を勇気づけ、見守り続けてくれることでしょう。
モアイの説明が長くなってしまいましたが、これだけの想いが詰まっているという事を知っていただければと思います!
モアイ像寄贈にご尽力いただいた皆様に、改めて深く感謝を申し上げるとともに、お亡くなりになられたマヌエル・トゥキ氏に、心よりご冥福をお祈りいたします。
南三陸町のモアイ像贈呈の功労者”彫刻家『マヌエル・トゥキ』氏”のご冥福をお祈りいたします。
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